自死について

親友と呼べる人が死を選んだ。 
しばらく時間が経ったが、ふとしたタイミングで故人を思い出し、そのたびに考えを巡らせている。誰にも話したくないので、ここに書いてみたい。

故人は非常に優秀なひとであった。功績を述べれば、少なくとも日本国内で彼を優秀と認めない人は居ないだろう。学業でもスポーツでも本当に優秀だった。

考えは常に理詰めで合理的である。
理屈を振りかざすわけではない。
考えていることが常に正論なのである。

そのため、相談をしても隙のない、ドライな正論を返してくる人だった。
自然に出る言葉だからか、実績に裏付けられているからか、それに嫌みがない、そんな人だった。

完璧だから、退路がなかったのか。
天才故に最適な解が自死であると判断したのか。
疲れて正常な思考ができなかったからか。
ご本人にとって幸せな選択肢は、なんだったのか。

今となってはわからない。声を聞くことはもう出来ない。 
聞けたらどうなのか?私は自死を止めるのか?それは間違っている、と言えたのか。   

どうしてそこに至ったのか?そこに至る経路のうちどれか一つのボタンのかけ違えがなければ、違う選択肢に至ったのか? 
私が何か一つでも、メッセージ一つ送ったら結果は違ったのか。

今となっては何もわからない。
なんでも失敗は次に生かせる。しかし、この選択肢だけは取り返しがつかない。

この先何年も同じ時間を生きると思っていた。 
仕事、家庭、どんな話をこれからするのか?楽しみにしていた。

私は故人を敬愛していた。
でも感謝の言葉を伝えられないまま、逝ってしまった。

故人のことはずっと忘れない。
故人になにもしてあげなかった自分の不甲斐なさも忘れない。


ありがとうございました。ごめんなさい。
どうかこの二言だけでも、届いてくれないだろうか。

昨年の話

格闘技を始めて10年ほど経つ。
実力は柔術紫帯。決して強い方ではないし、帯があがるのも人より遅い自覚がある。
何人もに追い抜かれたが、趣味でやっている以上周りとの比較をしていては疲れてしまう。
マイペースが一番。   

昨年の一番の進歩は試合に出たことか。
今までは練習だけしていればいいという姿勢だったが、周りの影響で出てしまった。勝ったり負けたりではあったが、練習の位置付けが変わったことで、より動きにバリエーションが出てきたと思う。

今年は知の年にしたい。格闘技はもちろんだし、仕事も。
技を体得するのではなく、分析・理解し言語化できるように。そんな練習を積んでいきたいとおもう。

残業

残業と家庭の板挟みで練習に行けない日々です。

人生には三要素あって、仕事・家庭・余暇だとおもっています。そのうち二つがオーバーラップしてもいいし、バランスはそれぞれ人によって違うと思います。

今は仕事が忙しすぎ、加えて家庭からの要求が厳しく、隙間時間に練習など行けません。
家庭にはストレス解消としての柔術そして人生を豊かにするための趣味を理解してほしいのですが、週数回の練習も許されないのです。なかなかつらい、、、

スパイダーをやめてハーフの練習をしている、と同じことで新しいことを得るには、過去積み上げてきたものを崩す覚悟が必要です。
かといって家庭を崩壊させる勇気もない、、、、

練習したいなあ。ライフワークとして取り組んでたのになあ、、、

受験エリートと柔術 その2

前回記事を書いてから大分間が空きました。

受験エリートとは、試験を突破するための努力を言われた通りに実施することに特化した人間と定義しました。

さて、ここで受験エリートと柔術の関係について私の考えを述べたいと思います。

受験エリートは淡々と努力を続けられるので、筋トレは得意でしょうし、ランニングなど日々の努力には適性があると思います。

一方で柔術とは最短経路で強くなるためには日々の練習量もさることながら、戦略的に練習する必要があります。

具体的には自分の出きること、出来ないことを客観視して分類・分析し、弱点をつぶしていく。その過程では今まで培ったものを捨てることもある、格下の選手にスパーリングでいいようにやられることも必要になるかもしれません。自分なりに工夫をしながら、できることをのばし、できないことをつぶしていくことになります。
その過程ではインストラクターからのインプットだけでは足りませんので、知識を獲得しにいく必要に駆られます。 
必要なのは自発性のある工夫です。

私は受験エリートのため、自発性のある工夫が本当に苦手です。苦手ながらも柔術を通じて自発性のある工夫という思考を少しずつ養っていけてるのだと思っています。まるでリハビリのように。

おそらく、柔術以外でも同じことは言えるのでしょうが、私は柔術しか知りませんので、このように思う次第です。

試合

先日といっても少し前ですが数年ぶりに柔術の試合にでました。

2019年の目標のひとつに、試合出場、としていました。
優勝!とかかっこいい目標を掲げる自信がなかったので、まずは試合出場としました。
そして、試合出場は私にとってハードルが高かったこともあり、目標として十分だと思えたのです。

試合に出ようと思ったのは、まわりの人が試合によくでていること。そして、試合を目標として研鑽をつむことでどんどん強くなっていること。その流れに取り残されていると感じたことが大きな理由です。私も強くなるサイクルに乗りたかったのです。

結果としては、あくまで自己評価ですが想像を上回る好成績を残すことができました。
格闘技は相手との相性があるので、たまたま勝てた面が大きかったと思います。それでも、記録に残る成績がでたのは、嬉しかった。。。のは一瞬だけで、とってもらった動画を見たらひどいありさまでした。まだまだ練習することがあるなーと。

実は試合が終わったら新しいガードをやってみようとおもっていたのですが、動画を見て急遽変更。
今までのガードをさらに高めよう、、、、というか今でも全然出来てないんだから、まともに出来るようになるまで居残りです。といったところでした。

出来ないことがみつかると嬉しい。そんな柔術が大好きだなあと感じた春でした。

受験エリートと柔術 その1

ここで言う受験エリートとは、予備校のプログラムにのっとって入試対策のみに特化した人を指すとお考えください。

私はいわゆる受験というものの結果は非常に芳しく、第一志望ではないひとがほぼゼロであろうという大学に受かることができました。
当時は地道な努力が報われたことに本当に嬉しかったのを覚えています。大変誇らしい気持ちに満ち溢れました。

しかしながら、ほどなくして予備校というガイドラインを失った途端にパフォーマンスが低下しました。それもそのはず、人生で受験というもの、しかも予備校教師からの指示を淡々と実践していたので、自分から知識や世界を開拓する能力が育っていなかったのです。

誤解をされてはいけないので断っておきますと、ここでいう受験エリートは少数派です。大学の同窓は優秀な人揃いでした。